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死をどう受け止めるか、そしてどのように埋葬するかは、文明社会が太古より抱えるの大きな課題のひとつです。
ところが科学技術が発展して生活が大きく変わったにもかかわらず、埋葬についての考え方はそれほど変わらず、法律や生活習慣の変化にアジャストしたのみでした。過剰に死を忌避する現代社会では、この分野についてはタブーといえるほど注意がはらわれてこなかったようにも思えるほどで、存在感の薄れてきた宗教とともに半ば形骸化したセレモニーとして国や地域ごとに流儀が定着し、ひとつひとつの儀式の意味をあまり考えることもなく受け入れてしまっています。そしてともするとこれほど長く変わっていないのだから、それは変わるべきでは無いものなのであって、現在の形が最適なのだという幻想すら抱きがちです。
しかし、伝統的価値観や宗教の影響力が大きく低下しているヨーロッパのふたつの国を中心に、最近新しい形の埋葬を選ぶ人たちが急速に増えてきました。
ウッドランド・ベリアル(森への埋葬)と呼ばれる、ナチュラル・ベリアル(自然葬)の一種です。
Woodland Burial=ウッドランド・ベリアルとはその名の通り、遺体を自然の状態に近い森へと埋葬する方法です。特定の宗教には縛られません。通常遺体には特別な防腐処理を施さず、森林破壊につながりかねない木製の棺や、製造に大きなエネルギーを使う金属製の棺ではなく、分解されやすい籐などで編んだ棺に納めて埋葬したり、法律や状況によっては火葬し、遺灰を収めた骨壷を森に埋葬します。前者のケースでは、余計なケミカルを含まない亡骸が実際に森へと還り、後者のケースでは、死が象徴的に森の生命の仲間入りをします。
Photo: DEBRETT'S
保守的なようでいて、実際は非常にラディカルでアヴァンギャルドなイギリスでは最初、ペットと同じ墓に入りたい人たちが、ウッドランド・ベリアルに注目しはじめました。動物と人が同じ墓に入るのは、現在のキリスト教では禁止されているので、教会の墓地では断られてしまうからです。しかし徐々に、代替手段としてではなく、陰気な教会の墓地よりも好んで選択する人が増えてきています。
一方ナチズムへの嫌悪から、無意味な慣習や宗教から離れて生活文化を再構築し、もはや婚姻ですら過去の因習としてあまりポピュラーではなくなっているドイツでは、やたらとコストがかかる旧来の墓地にかわり、比較的安価でありながら環境保護にもつながるウッドランド・ベリアルの人気が高まっています。
そしてこの埋葬のやり方は、この二国に留まらず、徐々に世界中でポピュラーになりつつあります。最近ではグリーン・ベリアル(緑の埋葬)などとも呼ばれているようですが、木や金属の棺や防腐剤などのケミカルなどを使わず、環境負荷が低いことが強調され、あまり良いこととは思えませんが、エコ・コンシャス=インテリジェント+ラグジュアリーの傾向にしたがって価格も若干上昇し、コマーシャライズしてきているようです。
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日本では何故か“樹木葬”として定着しはじめています。どうやら墓碑の代わりに樹木を植える方法と曲解されている部分があるようで、植樹活動のような意味合いを帯びてきているようです。
樹木葬で有名なのは、北欧で古くから行われていた、大樹の根元に数世帯づつ埋葬する方法で、これは埋葬の度に植樹するわけではありませんし、土地の宗教に根ざしているという点や、墓碑に樹木を使用するという点でウッドランド・ベリアルとは少し趣(おもむき)が異なります。もしかすると墓石の代わりに樹木を植えていく森林墓地という解釈と方法を採用しなければいけないほど、日本には自然の森が少ないのかもしれません。
沖縄の北部、ヤンバル(山原)と呼ばれる地域は、北緯27度前後に位置していて、世界でも類を見ないくらい多様な動植物が生育する亜熱帯の原生林が広く残っています。わずか30年前、1981年に発見された飛べない鳥、ヤンバルクイナで有名な場所です。
この地域は、古くは毒蛇のハブに守られ、そして近年では皮肉なことに、広大な原生林を基地用地として接収した米軍が、サバイバル訓練用にそのまま維持したため、ほぼ人跡未踏の状態で残されているのです。
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国道を走ってヤンバルへと向かうと、英語のサインをぶら下げた、基地の長い長いフェンスに囲まれた広大な原生林の樹々が、瑞々しく悠然と連なる様子を見ることができます。そして悲しいことに、そのフェンスが終わった途端、山は削られ、コンクリートで固められ、残った樹々が溌剌さを失い、薄汚く喘ぐように立ち並ぶ光景に変わります。
そのままさらに北へと向かうとやっと、基地の狭間にまだ手付かずの原生林が残っているのを目にすることができるようになります。しかし、残されたわずかな原生林にも、誰が必要としているのか、新しく道路をつくろうと、次々と重機が運び込まれているのです。
森は土中も含め、立体的に空間を活用している緻密なシステムです。大きなひとつの生き物ともいえるかもしれません。ですから森を掘り起こしてアスファルトで固め、その両脇に雨水を集めて排水するコンクリートの側溝を設備するというのは、生きている動物を大きく切り裂いて創傷を溶かした鉛で固め、血管をバイパスするようなものです。そんなことをすれば土中の栄養や水分を循環するシステムが寸断されて壊死し、全体の健全さが失われてしまいます。
現代社会は、経済合理性に反するものの存在を排除しがちなシステムです。そして近年とくにその傾向が強まってきています。
エクセル上では、誰も使わないような道路をつくるほうが理にかなっているのかもしれませんが、本当は評価すべき変数が多く欠落していると考えるほうが自然だと思います。そして世界にも類を見ないユニークな動植物が生息する森を短絡的な判断で壊滅的な状態に追い込むのは、感傷的な部分を差し引いても、本を焼くのにも等しい行為だと思うのです。
日本の面積のたった0.1%にすぎない面積に、日本で確認された植物の四分の一に相当する、およそ1,250種類もの植物が繁茂しているヤンバルの常緑広葉樹の原生林ですが、その保全運動は、残念ながら決定打を欠いているのが現状に見えます。貴重な森として世界遺産に登録したくても、基地が多くてかなわず、原生林をそのまま保全したところで資金的にも手詰まりで、勇敢な人々がグリーンツーリズムなどの啓蒙活動をすすめている間にも、新しい道路が猛烈な勢いで森を侵食しています。
そしてこれは沖縄に限ったことではありません。開発と破壊は、世界中のどこの自然林も直面している問題なのです。残念ながら現代社会では、自然のままの原生林に資産価値など認められていないからです。
実はウッドランド・ベリアルは、環境にやさしい埋葬というだけではなく、こうした破壊を少しでも緩和する手段になるのではないかと期待されているのです。墓地になることで一種の公界(くがい)となり、無闇に開発できない聖なる森として、永く後世まで自然の状態で保全できるのではないかと。
死は“終わり”ではありません。亡骸は他の生命として転生し、魂は残されたものの記憶や想像力の中に鮮やかに残り続けます。そして実際に、もしくは象徴的に森へと“還る”ウッドランド・ベリアルはその営みをシンプルに体現している埋葬といえます。ここでは、亡骸も魂も、同じ森に眠る先立った愛するペットたちや家族と共に、聖なる森の守り神として静かに活躍し続けることができるのです。
宗教的なスタイルにとらわれず、時折この森に集って火を炊き、好きな音楽を奏でて、転生を実感し、想い出を共有できれば、形骸化したセレモニーよりもずっと深く、失った悲しみ受け入れやすくなるような気がします。
ひょっとしたらウッドランド・ベリアルは、新しい形の埋葬などではなく、いちばん古い形の、本来の埋葬の形なのかもしれません -- 森の民だった私たちにとっては。
亡くなった者にとって、そして残された者にとっても、死は新たな門出なのだ。
死は肉体からの解放であり、そこに宿っていた魂がなくなることはない。
~マハトマ・ガンディー(ガンディー 魂の言葉)
こちらは、海へと還っていった魂です。