2010年8月22日、カリフォルニアのヴェニスにあるオーガニック食品店に警官たちが突入しました。監視用カメラがとらえた映像には、銃を向ける警官たちの緊迫した様子がはっきりと映っています。彼らの目的は、未処理のオーガニック・ミルク、でした。
Source: Survive And Thrive TV
このオーガニック食品店はもともと、近隣の有機農家が作物の交換所としてはじめたもので、マクロビオティックを実践している人や、菜食主義者などに人気です。そしてそのような店で買い物をする人たちは、未処理のミルクのリスクなど充分承知の上ですし、対処する方法も心得ています。遺伝子組換え食品や工場で過剰に加工された食品のほうがよほど危険だと考えて、あえてこうした食品を選択している人たちなのですから。
Source: Los Angeles Times and RTAmerica
警官たちは新鮮な野菜やミルクの貯蔵された冷蔵庫を開けっ放しにして台なしにしたうえ、令状に記載されていた“サンプルとして”とは思えない量のミルクや食品を押収していったそうです。
なぜこんなくだらない嫌がらせまでして、好きなものや自分たちで育てた作物を食べることができないようにしたがるのでしょう。
権力者が統治をするとき、必須なものを源からコントロールするという手法をとります。もちろんそれは、不必要な争いを避けるため、すべての国民が必須なものを、誰かが独占してしまうのを防ぐため、といった側面もあります。しかし法律などで調整分配することも可能ですから、あまり説得力のあるオーギュメントとはいえません。むしろ独占に成功したものが権力者となり、法の精神を曲げてまで支配を強めているとみたほうが自然かもしれません。
支配と密接に結びついた独占管理は、古くは“水”で、東西を問わず“上下”の価値観のベースにもなっています。そしてしばらくすると、必須ミネラルの“塩”をコントロールするという手法が生まれます。これは植民地政府が好んで利用した手ですし、“サラリーマン”の“サラリー”が塩を意味することからも、単語の使われかたに支配と隷属の意味あいを色濃く残していることがうかがえます。
時と共に、支配の対象は交換価値としての金(ゴールド)や貨幣から紙幣、石炭石油などのエネルギー、最近では電力と、拡大変化を繰り返してきています。実はどれもこれも空気のように自由に手に入れられるはずなのに、私たちは子どものころからの“刷り込み”や、社会正義の視点からの安定性や、安全性の確保のなどの名目で、国家や企業による独占を“当たり前のように”受け入れてしまっています。そしてこの独占対象のリストに、いよいよ本格的に“食糧”が加わりそうになってきたのです。
この突入は、S510 FSMA(the Food Safety and Modernization Act=食品安全近代化法案)の成立に向け、数年前よりかなり攻撃的になっていた、FDA(Food and Drug Administration=米国食品医薬品局)の小規模農家への執拗な取り調べのひとつの例にすぎないそうです。
Natural Newsによるファーマー・ブラッド氏へのインタヴュー映像(英語)。
食品安全近代化法案は、衛生管理が充分ではない農場や工場で生産された汚染食品によって発生する食中毒の被害に対し、安全管理基準を強化する目的で立案されたということになっています。ただ膨大な検査費用は農家持ちとなるため、実質上大規模農業(アグリ・コープ)しか生き残れなくなってしまう危険性があることや、個人で野菜を植えることもできなくなるとも読み取れる部分があるなど、数々の問題点が指摘され、年商50万ドル以下の農家には摘要されないという特記事項が追加されましたが、どうつくろってももはやその意図は明らかに見えます。
食糧は昔から管理の対象ではあります。米は江戸時代の日本で、貨幣としての機能を備えていたくらいです。しかし食糧は生き物で自然に生えていたり泳いでいたりしますから、根源から支配管理するのは難しく、土地の支配や管理、税などによって間接的な支配をする方法がとられていました。それがここにきて、安全性を理由に、自分で自分の食べ物を育てる権利を奪い、食糧を一括管理することで覇権を強め、“ピンはね”額を増やそうとしているのでしょう。食中毒などの事故を頻発しているのはむしろアグリ・コープ製の食品であることからも、安全性低下の原因と思われるコスト増、やみくもな合理化、倫理意識の低下のサイクルを新たに生み出し、そのうえリスクを分散することもできなくなるような法を導入する理由が思い浮かびません。
この法案は、2010年11月30日、米国上院でいったん可決されてしまいましたが、ラッキーなことに実質的に新たな税制にあたる内容が織り込まれていた(…やはり)ため、差し戻しとなりました。期限内に改訂して再票決に持ち込むためには、大変な時間とコストがかかるため、再可決は実質上困難となりました。
日本でも最近食品の安全(危険性)をめぐるマスメディアでの報道が目につくようになってきていますが、ほかのニュースの重要度からみてもいささか過剰な印象があり、あるいは特定の潤沢な資金力がスポンサーとなっているのでは、という疑念は拭い切れません。特定の資金力がメディアをコントロールするというやりかたは、原発の例にもあるように、めずらしいものではないですし、農産物が米国の数少ない外貨獲得手段であることや、日本の政治経済が米国の強い影響下にあることから考えて、日本国内でも食糧一括管理への道筋をつける動きがあると考えるのは妥当でしょう。
アグリ・コープを説明した映画マトリックスのパロディー動画です。
一方で、こういう見方もあります。
ルイズ・フレスコが世界中に食料を与える事について語る
ルイズ・フレスコ氏の主張は、緑の革命を牽引したノーマン・ボーローグ博士の考えと非常に似ているところがあるように見えます。
しかし改良した植物に化学肥料を大量に使い、機械化をすすめた緑の革命は結果的にいろいろな問題を引き起こしています。
もちろん慈善事業として食糧危機を回避したとされる緑の革命を否定するものではありません。目の前に苦しんでいる人がいて、自分が助けになりたいのなら、有用なテクノロジーは積極的に使うべきです。ボーローグ博士はこう言っています。
西欧の環境ロビイストの中には耳を傾けるべき地道な努力家もいるが、多くはエリートで空腹の苦しみを味わったことがなく、ワシントンやブリュッセルにある居心地の良いオフィスからロビー活動を行っている。もし彼らがたった1ヶ月でも途上国の悲惨さの中で生活すれば、それは私が50年以上も行ってきたのだが、彼らはトラクター、肥料そして潅漑水路が必要だと叫ぶであろうし、故国の上流社会のエリートがこれらを否定しようとしていることに激怒するであろうフィールドで飢餓と戦っていた人の、実感のこもった重い言葉です。しかし同時にまるで軍人の言葉のような、批判を許さない、思考停止を誘いがちな危うさを秘めた言葉にも思えます。
そして博士は緑の革命について
rather than to solve the world's socio-economic problems that existed from time immemorial.と述べています。
The Green Revolution, is a change in the right direction, but it has not transformed the world into a Utopia. =太古から続く社会経済的な問題を解決するよりは、テクノロジーを賢く使って飢餓を救うのは正しい方向だ。しかしだからといって緑の革命がすべてを解決するわけではない
あたりまえの動機でできるかぎりの努力をしていただけなのに、いつの間にやら世界の救世主にまつりあげられ、そして非難の的にさらされた人の、シンプルで力強く謙虚な言葉です。持てる者が、持たざる者に富を分配する方法として、制度を改良するよりも、慈善事業により今すぐ技術的な手を差し伸べ、自立を援助すべきだという現場主義の苦渋の判断はしかし、世界全体のインフレーションと格差の拡大をもたらしました。
目の前の危機を回避するための暫定的な措置として、緑の革命の功績は大きいのですが、結果的に新たな貧困や東西格差の拡大を生み出したということは否定できません。博士の発言にもあるように、そもそも農民の困窮の原因は、“合理的”な農業をしていないから、ではなく、労働に対して適正な報酬が支払われていないためです。純粋に社会経済のデザイン上の欠点が引き起こしている問題で、合理化や機械化をすすめるだけでは、長期的にはむしろ農民の貧困や土地の荒廃をまねきます。ダストボウル(怒りの葡萄 Wikipedia)の再来になるだけですし、実際に緑の革命はこの問題を引き起こしました。一方、安く輸入できる穀物と、それに伴い低賃金で使える労働力が大幅に増加した先進国の都市部はうるおい、企業が大躍進をとげました。化学肥料や殺虫剤を製造する製薬会社は膨大な利益を上げ、原料の石油をめぐって戦争が止むことはなく、そのうえ“後進国”でもまた同じ現象が続きました…農地の荒廃、低賃金労働者の増加と都市流入、企業の躍進です。生命サイクルから切り離された大量の労働者と一部の権力者、それを支える貧農という構造は少しも変わること無く、たとえるならピラミッドという圧縮構造の最下面に新たな層が追加されただけにすぎません。しかしかぎられたリソースの中で成長曲線しか描かない社会などというものは存在しえないのですから、短期的にうるおったようにみえても、かならず自滅します。
地球という限られたリソースの中で、現在の社会モデルの成長曲線はすでに限界に近づいてきています。今は目前の飢饉を救うことが重要であると同時に、太古から続く社会経済の欠点を解消するのもまた重要な急務なのです。昔うまくいったからといって失敗した部分には目を瞑ってもう一度試してみる余裕は、今回はありません。
ルイズ・フレスコ氏が、やや過剰に演出された講演で主張しているのは、大意においてボーロック博士のやり方をより洗練させ、きめ細かく対処しようというものです。ただ、たいへん気になる部分があります。講演の後半で、
「バイオテクノロジー(生物工学)を使いましょう、バイオロジカル農法(オーガニック農法)では食糧問題を解決することはできません」
と断言してしまっているのです。そして理由は示していません。
たしかにオーガニック農法だけでは解決できないでしょうが、充分に使える技術であり、実際にそれで自給している島国もあります。まさか先進国の金持ちの道楽っぽいからといって使えないテクノロジーなのだと短絡的に決め付けているわけではないとは思いますが、オーガニック=ラグジュアリーという印象を間接的に演出しているようにも見えます。実際にそのような方法で儲けているだけの企業も多いので、辟易とされているだけかもしれませんが、有用な例があるのにあまりに唐突な否定は不自然です。また、フレスコ氏の言うバイオテクノロジーが、品種改良という意味であれば ― おそらくそうですが ― すでに何千年にわたった実績があり、惹起される問題やトラブルの解決策がない事態になるリスクは少ないはずですが、もしそれが遺伝子組み換え技術を示唆しているのであれば、その技術としての有用性は検討の余地はあるとはいえ、大規模な導入はまだまだ時期尚早です。遺伝子組み換え技術は、そのマーケットシェアを、ある巨大企業が実質独占してしており、その独占状態や社歴からも、テクノロジーの完成以前に商品化されてしまった可能性が高いと思われるからです。
世界屈指のバイオ化学メーカー、モンサント社がシェアをほぼ独占する遺伝子組み換え作物(GMO)は、特定の害虫や病気、薬物に対する耐性を強化した遺伝子を持ち、それ以外のすべてを除草できるラウンドアップという農薬とセットで販売されています。種籾の遺伝子にはロイヤリティーが発生しますから、農家は毎年使用料を支払わなければなりません。ターミネーター遺伝子(自殺遺伝子)を組み込むことで種籾の不正利用を防ぐ技術もありますが、こちらはまだ認可されていないようです。そしてこのモンサントの種子は、他の自然の種同様に、近隣の農地まで勝手に広がっていってしまいますが、その先がたとえ契約農家でなくても、モンサントは使用料と高額な賠償を請求しています。そのため、いままで引き起こしてきた数々の農家との軋轢も相当なものです。
はたしてモンサントの遺伝子組み換え作物は、一時的にでもボーローグ博士が関わった“緑の革命”のように、食糧危機の救世主となりえるのでしょうか。
残念ながらあり得ません。手段が計画を補完することはあっても、取って代わることはありません。種だけで収量が増すわけではないのです。仮にかつて緑の革命で収量が4倍になった地域に新たにGMOを導入し、その収量をさらに4倍に増やすことができたとしたら、それはもともとの16倍ということになります。そのために必要な真水やエネルギーは足りるのでしょうか。大規模な灌漑事業や機械化が必要となり、いっそう短期間に、社会経済の欠点を増幅し富の一方向的な潮流を加速することになるだけなのではないでしょうか。緑の革命が主に都市部で人口爆発を引き起こしたのなら、今回もまた人口爆発がおき、また新たな飢餓の危機にさらされることになるだけではないのでしょうか。厚さ0.1mmの紙も、43回折れば月より遠くまで達する厚さになります。倍の倍、というやり方は、非常に危険なのです。根本的な不良を解決することなく社会経済の構造不良をインフレーションでカバーするやり方はもはや崩壊寸前なのではないでしょうか。
緑の革命は慈善事業でしたが、モンサント社は慈善団体ではありません。それどころかかなり阿漕(あこぎ)な独占企業と言われています。資金力にものをいわせた法廷闘争や、数々の卑劣な手口のため、嫌う農家も少なくありません。ところが近年、そのシェアは毎年拡大をつづけています。それは強引な営業手法もあるのですが、たとえば貧困により農家が藁をも掴むような気持ちになったとき、GMOとラウンドアップを使えば、一時的に比較的楽に収益が得られる(ような気がする)から、という側面あるからです。高利貸しと同じようなビジネスモデルといってもいいでしょう。
しかし単位面積あたりの収穫量アップや手間の減少は、まず小作農のレイオフをまねき、そして次には作物の価格崩壊を引き起こします。土地は疲弊し水源は枯渇します。そのうえモンサント社に種子のロイヤリティーを毎年支払わなければなりませんし、大規模な機械化や灌漑工事のための投資が必要になりますから、地元で回っていた経済や資源の一部が特定の企業に吸い取られ続けることになり、結果的に地域の貧困は拡大します。使用をやめることもできますが、残留農薬の影響や、市場価格が下落しているのに収量がダウンしてしまうことなどに対応する費用を捻出したり、技術的なサポートを得られる農家は稀ですから、中毒のように継続し続けるか、最悪農地を収奪されるはめになります。そしてもしある地域で役人が買収されるなどして一度認可されてしまったら、また、近隣のどこか一箇所でもGMOを導入してしまったら、経済的にも生物学的にもアウトブレイクしてしまいかねず、しかも大きな規模で問題が発生してしまうようなことがあっても、解決する技術は確立していません。
ここで憂慮すべきなのは生物多様性ではありません。それも重要ですが、注視しなければいけないのは、農作物を、そしてとくに食糧の生産を、ある企業とそのとりまきが独占支配し、地球上のある地域が別の地域一方的に搾取する構造を恒久化てしまいかねないということなのです。たとえその企業が、飢餓を救うため、などという大義をかかげていても、復旧の手段とともに技術と周辺施策を無償提供をしているわけではないのであれば、真に受けるべきできません。
加えてボーローグ博士の名を利用するような手段にでるようなら、むしろ他者の意見などに耳を貸す気はないのだと警戒しておいたほうが良いでしょう。彼の物言いは、騒がしい反対派を黙らすにはうってつけだからです。
そのうえ“正しい理解をしていただく”などという一方的な暗示に満ちたな言葉を使い出したら、傲慢な悪意を疑ってみるべきでしょう。誤解されていることを前提に想定問答によるミスリードをするという古臭い手法が、オープンでニュートラルな善意ではないということをいっそう明白にしているからです。
だいたいモンサント社とボーローグ博士に、何か直接的な関係はあるのでしょうか。遺伝子組み換え作物も、緑の革命のごく小さなテクニックのひとつにすぎなかったのですから、この企業が、慈善事業目的でもなく博士の名前や功績を引用することに強い違和感があります。博士の行ったことは、その内容も目的も、モンサント社の事業とはほとんど何も共通点はありません。強いてあげるなら、単位面積当たりの収穫量アップのために、科学物質の大量投与と特別にデザインされた植物を利用するという部分だけです。それも、一方は、目の前の飢餓から農民を救うために泥まみれになりながらベストな方法では無いと知りつつ、灌漑事業などとセットの慈善事業の一環として、であり、かたや、巨大な城の一室で最高級の葉巻をくゆらせつつ各国からあがってくる営業成績にほくそ笑みながら、なのではないでしょうか。
なによりもいちばん気になっていることは、この遺伝子組み換え作物は“絶対に安全”だと言われているということです。モンサント社はかつて枯葉剤やPCBを開発した会社です。それも“絶対に安全”なはずのものでした。結果はご存知のとおりです。
PCB、GMOのように、“絶対安全”を旗印に大々的に導入され、稼動されているシステムに原子力発電があります。しかしながら1956年に商用原子力発電所が稼働してから、すでに3度、大事故を起こしています。はたして今後、絶対に事故のおきない安全な原子力発電は可能なのでしょうか。
個人的には可能だと思っています。遠い遠い未来には…
ただ今はまだまだ無理です。可能になるまでおそらく万年単位の歳月が必要でしょう。放射能の影響もはっきり解明されておらず、廃棄物の処理には最大数万年かかる可能性があります。安全の確認には実際にそのサイクルを通してみる必要がありますし、そのシステムを運用中安寧に続く文明というものも達成しなければなりません。しかし歴史上プルトニウムの半減期に相当する期間安定した文明など存在したためしはありません。10キロメートルしかテスト走行をしたことのない車種を、10万キロ走っても絶対に壊れないと言うことはできないのです。10万キロ壊れずに走れるはず、と希望的観測を言うことはできますが、絶対に壊れないとは言いきれません。
そして安全確認のアセスメントが純粋にエンジニアリングによるものになるようになるためには、もしかするとプルトニウムの半減期以上の長い年月が必要なのかもしれません。
人はまだ、たったひとつでも絶対に事故のおきないシステムをつくったことはありません。もちろんそこにチャレンジする価値はあると思います。ただ、事故が起きれば世界が滅亡しかねないシステムを動かしながら検証進化させるというような危なっかしい手段ではなくて、まず例えば100%事故のおきない交通システムを構築してみる、なんてどうでしょうか。破綻しない経済システムでもいいです。
普通に考えてみれば、現在地球上で原発を安全に運用するということがいかに無謀かということがわかります。そう判断するのに、専門家も統計数値も必要ありません。人に対する充分な洞察でこと足ります。危なくても使わなければならない、のならば、使わなければならない仕組みのほうに問題があると考えてみるべきでしょう。
原発がなければ豊かな生活ができないという“権力者”たちがいますが、その一見無尽蔵のエネルギーの権利をオーソリティーが独占しているのなら、そこではいったい誰の豊かな生活を維持できなくなるのでしょうか。そもそも今の生活は、豊かといえるのでしょうか。30種類のバラエティーに富んだ冷凍食品を買い貯めて、朝慌ただしく弁当に詰められることのほうが、放射能に汚染されてない新鮮な季節の野菜を食べられることよりも豊かなことなのでしょうか。メディアがスポンサーの意向で巧妙に誘導する“スタンダードな生活”は、本当に豊かな生活なのでしょうか。なぜ豊かと感じる生活のイメージにはスポンサーが付いているのでしょうか。なぜ豊かな生活は“買える”のでしょうか。原発を止めると餓死するほど貧しくなるのでしょうか。なぜ原発以外の解決方法をマクロでニュートラルな視点から考慮しようとすらせず、判断材料の乏しい状態で恐怖感ばかり煽るのでしょうか。
原発がなくなったら、熱さや寒さで死んでしまう人がいる、という“専門家”もいます。しかしこれも欲のために嘘をついてエンジニアリングを軽視してつくってしまった原発にこそ問題があるのです。安全ではないから稼働できないのです。本当はテクノロジーを手に入れてなかったのです。それなのに原発を止めろという人たちを、無知だ無責任だとただ攻撃する“専門家”たちは恥を知るべきでしょう。事故が起きたという事実、不正があったという事実の前では、専門家としての“理論的に安全である”という個人的な見識は大した意味を持ちません。あれは古いから起きた事故だ、新しい原発は安全だという意見も、安全ではなかった原発も稼働されていた、という事実のために、そもそも関係法人個人が実用運用を可能にするレベルにないのだ、という意味しか持ちません。安全と主張されていたものが事故を起こしている、という事実から焦点をずらすことはできないのです。
もし本当に人を救いたいと思っているのなら、そんなことで頭脳と時間をムダにせず、すぐにプロジェクトを組んで、色々な才能を集め、しばらく使えないことが明らかになった原子力というオプションを使わない問題解決に務めるべきです。熱さや寒さで死なせない、というような緊急の課題から、長期的な手段までのすべてを。膨大なコストがかかるかもしれませんが、専門家としてニュートラルに政治に働きかければ、いままで極めて不正に溜め込まれてきた原発利権集団の資産を接収して資金にあてることだってできるはずです。最悪うまくいかなくても、現状と変わりありません。卑怯なプロパガンダを繰り返す輩の一味になるよりはよほど建設的です。
食糧も似た罠に陥ろうとしているように見えます。見え隠れする嘘や不正の質が近いのです。彼らの“絶対に安全”は、“充分に研究されていないけど今は儲かる”という意味にすぎません。
社会経済の欠点をインフレーションでカバーしつづける社会で、生命のサイクルからは切り離され、自由意志を削がれ、指示されたことを延々とやらされ続け、安全ラベルのついた餌だけを食べ、オススメの同じような服をきさせられ、同じようなものを買わされ、職にありつくための各種資格とそのための学校というマッチポンプに踊らされる生き方、支払うために稼がされるような生き方はあまり魅力的とはいえませんし、そしてそれが社会の正常な形であるとも思えません。
もはや取り返しの付かないことになる前に、自分たちの食べ物やエネルギーを自分たちで確保するいいやりかたを見つけないといけないステージなのかもしれません。長きにわたって支配、独占、専業分科されてきた“知識=インテリジェンス”をインターネットが解放しつつあります。単なる“情報=インフォメーション”ではない“知識”を縦横につかえば、すぐにでもおおきな成果があげられるのではないでしょうか。そしていつかは他の、支配されてきたもの、も解放することができるようになるかもしれません。
美しい大地を耕して生きるというフォークロアなイメージは、本当にファンタジーにすぎないのでしょうか。地球は人生を苦しめるために存在しているのでしょうか。比喩的に言いかえれば、私たちは本当にエデンを追放されたのでしょうか。追放されたから生きるために苦労しなければならないとひたすら言われつづけたため、疑念を挟むこともなくただ盲信してしまっているにすぎないのではないでしょうか。
食糧生産合理化だけに頼るやりかたや、遺伝子組換え技術などへの反対運動は条件反射でもヒステリーでもありません。あまりにも問題がありすぎるのです。
カウンタームーブメントと呼ばれるような運動でも、伝統農法へ回帰するだけしか能がない、ルサンチマンな愚民が暴れているだけだと唾棄するのはあまりに傲慢です。
そして、フレスコ氏も言うとおり、私たちをとりまく問題を単純化、矮小化せずに正常に評価し、今安全にあつかうことのできる自然を謙虚に、がめつく独占しようなどと愚かなことを考えずに、インテリジェンスとテクノロジーを活用して利用すれば、充分に楽な、本来の生活を手に入れることができるはずなのだと思います。
もう、恣意的に合成された意味のない数値、厭世的=賢いというような愚かな風潮、批判する資格の有無などという戯言、非建設的な個人攻撃、無価値で不毛な討論テクニック、金さえあればなんでもできるなどという世迷い事、過去の成功例への無批判な追随、などにかまって遊んでいられる場合じゃないのかもしれません。
Gladys Jennip:
Feeling a little paranoid on our last day?
すこし被害妄想がすぎやしません?
Nathan Muir:
When did Noah build the ark Gladys? Before the rain.
ノアが方舟を作ったのはいつだと思う? 雨が降る前さ
映画「スパイ・ゲーム」より
バックミンスター・フラー氏の「宇宙船地球号操縦マニュアル」という本に
It is utterly clear to me that the highest priority need of world society at the present moment is a realistic economic accounting system which will rectify, for instance, such nonsense as the fact that a top toolmaker in India, the highest paid of all craftsmen, gets only as much per month for his work in India as he could earn per day for the same work if he were employed in Detroit, Michigan. How can India develop a favorable trade balance under those circumstances? If it can’t have a workable, let alone favorable balance, how can these half-billion people participate in world intercourse? Millions of Hindus have never heard of America, let alone the international monetary system. Said Kipling “East is east and west is west and never the twain shall meet.”という一節があります。1969年に出版された本です。緑の革命が解決することのなかったこの問題は、目前にせまる飢饉どころか、場所を換え、規模を拡大し、たった今も多くの犠牲者を生んでいます。飢饉から人類を救うために、などとステートメントしている企業は、その社会的正義心から、この問題に対していったい何をしているのでしょうか。 “善意”にもとづいた動機で販売した商品の莫大な利益を、還元でもしているのでしょうか。
今世界社会が最も必要としているのは、例えばインドの職人の中で最も賃金の高い優秀な修理工が一ヶ月かけて稼ぐ額を、デトロイトでなら一日で稼げてしまうというようなナンセンスを調整することができる“現実的”な経済の会計システムだ。そのことに疑念の余地はない。こんな状態でいったいどうやったらインドは良好な貿易収支を築くことができるというのだろう。バランスを運用可能なレベルにかつ良好にすることができないのなら、どうやって彼ら5億もの人々が世界通商に参加することができるというのだろうか。その上、“アメリカ”どころか“通貨システム”という言葉すら聞いたことのないヒンドゥー教徒が何百万人もいる。キップリングの言う、“東は東, 西は西, 両者相会うことなかるべし”のままだ。
As a consequence of the Great Pirates’ robbing Indo-China for centuries and cashing in their booty in Europe, so abysmally impoverished, underfed and physically afflicted have India’s and Ceylon’s billions of humans been throughout so many centuries that it is their religious belief that life on Earth is meant to be exclusively a hellish trial and that the worse the conditions encountered by the individual the quicker his entry into heaven. For this reason attempts to help India in any realistic way are looked upon by a vast number of India’s population as an attempt to prevent their entry into heaven. All this because they have had no other way to explain life’s hopelessness.
大海賊達が何世紀にもわたってインドシナから略奪しつづけ、ヨーロッパで戦利品を現金化し続けてきた結果、インドやセイロンの何十億という人々は底なしの貧困に陥り、飢えに苦しみ、肉体的な苦痛を味わってきた。そんなことが何世紀も続いてきたから、彼らは地球はもっぱら地獄の試練のために存在し、より酷い目にあった者ほど楽に天国へ行けるなどという宗教信条を持つようになってしまった。そのせいで多くのインド人が、インドを救う現実的な試みを天国への入り口を閉ざすものとみなしてしまったほどだ。それもすべて、他に人生に対する絶望を説明する手だてがなかったからなのだ。
原発がもたらしたという“豊かな社会”は、こうした問題の解決への道筋を開いたのでしょうか?
飢餓をなくすためには、負荷分散のまずいインフレーションベースの社会経済もまた早急に解決するべき課題です。そのためには、慣れ親しんでしまった悪習から脱却するという、社会的にストレスの高い方法も止む得ないのかもしれません。今の状態は、それほど危機的に思えるのです。